日御碕神社について

ご由緒

日御碕神社は、島根半島の最西端、出雲市大社町日御碕に位置し、上の宮「神の宮(かみのみや)」と下の宮「日沉宮(ひしずみのみや)」の2社からなります。神の宮は素盞嗚尊(すさのおのみこと)を祀り、神社の由緒によると、安寧天皇13年、隠ヶ丘(旧跡がある現社殿後方の丘)に鎮座していたものを現地へ遷座されました。また、天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祀る日沉宮が現社地に遷座されたのは天暦2年(948)の頃で、それまでは現社地から約200m西側にある経島(ふみしま)に鎮座していたといいます。

下の宮「日沉宮(ひしずみのみや)」

下の宮「日沉宮(ひしずみのみや)」

上の宮「神の宮(かみのみや)」

上の宮「神の宮(かみのみや)」

経島

経島

日御碕神社例大祭(神幸祭)・経島

日御碕神社例大祭(神幸祭)・経島

境内は、日本海にほど近い山裾にあり、北側を山が、南側を廻廊が囲みます。東側に建つ楼門を進んだ正面に日沉宮が、そこから北東方向に石段を上がった先に神の宮があります。両社殿には、奥に玉垣で囲まれた本殿があり、その手前に幣殿を介して拝殿を配置します。どちらも本殿は幣殿や拝殿より一段高い場所に建てられており、高低差のある地形をうまく利用した建物配置になっています。

神社の歴史

平安時代末期、後白河上皇が編纂した歌謡集「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」に「聖の住所はどこぞどこぞ、出雲の鰐淵や日の御碕」とあり、日御碕は修験の聖地として都で有名でした。戦国時代には出雲大社と肩を並べるまでになり、出雲国全体の鎮守神として朝廷や幕府のほか、大名の崇敬を集めました。

社宝には、国宝・白糸威鎧(しろいとおどしよろい)のほか、甲冑や刀剣など、武将等から寄進をうけた数多くの美術工芸品があり、その多くは国の重要文化財や島根県指定文化財に指定されています。また、尾張藩主・徳川義直が寛永11年(1634)に日御碕神社に奉納した「出雲国風土記」の写本(島根県指定文化財)は、現存する最も古い写本として知られています。

建物の歴史

文化財に指定されている境内の建物は、江戸時代初期の寛永年間に建立されました。神社の文章等によると、江戸幕府3代将軍・徳川家光が寛永12年(1635)に松江藩主・京極忠高に命じて造営を開始し、藩主が松平直政に替わった同20年(1643)に竣工、同21年に遷宮が行われたことが分かります。神社にはこの時代の貴重な史料が保存されており、建立時の彫刻や彩色の記録、図面などがあります。その後、屋根の葺き替えや塗装の塗り直しなどの修理を繰り返し今日に至っています。

日沉宮本殿建地割図
(側面図と断面図を一緒に描いている)

境内の見どころ

極彩色が目を引く日御碕神社。神の宮、日沉宮、そして楼門を見上げると、建造物を飾る色とりどりの彫刻が目に飛び込んできます。蟇股や妻飾りの彫刻にあしらわれているのは、身近な動物・草花から龍などの想像上の生き物まで様々で、100ヵ所以上ある彫刻に同じデザインは二つとありません。

日沉宮の妻飾り

日沉宮の妻飾り

向拝部分の木鼻(日沉宮:獅子)

向拝部分の木鼻(日沉宮:獅子)

向拝部分の木鼻(神の宮:象)

向拝部分の木鼻(神の宮:象)

蟇股の彫刻(日沉宮拝殿)

蟇股の彫刻(日沉宮拝殿)

蟇股の彫刻(楼門)

蟇股の彫刻(楼門)